12月3日は「カレンダーの日」です。
カレンダーの業界団体である全国団扇扇子カレンダー協議会および全国カレンダー出版協同組合連合会によって、昭和63年(1988年)に制定されました(平成24年には、日本記念日協会の認定記念日に登録)。

日付の由来は、太陰太陽暦が明治5年12月2日に打ち切られ、翌日の12月3日が太陽暦の明治6年1月1日となった「明治改暦」の史実から。
毎年この日には明治神宮で、来年の暦原本を奉告して、カレンダーを手にするすべての人の平和と幸せを祈願する神事「新暦奉告参拝」が執り行われます。


▲新暦奉告参拝の様子(「カレンダーのトーダン」公式Xより)。トーダンは1903年創業の老舗カレンダーメーカーです


【由来】明治改暦とは?

江戸時代の日本では、月の満ち欠けを基にした旧暦「太陰太陽暦」が広く普及していました。
しかし、明治政府は外交を円滑に進めるため、欧米諸国と同じ「太陽暦(グレゴリオ暦)」の必要性を感じていました。

太陰太陽暦と太陽暦02
▲太陰太陽暦と太陽暦の違い。「太陰(たいいん)」とは月のことです

そうした背景の中、明治5年(1872年)11月9日に宮中で行われたのが改暦式です。
明治天皇が伊勢神宮を遥拝して祝詞を読み上げ、政府は天皇の詔書と太政官布告を発して「来る12月3日を以て明治6年1月1日とし、太陽暦を実施する」と発表しました。
これにより日本は諸外国と外交上の足並みを揃えることとなり、文明開化の道を歩み始めたのです。

国民は混乱しなかったの?

太陽暦採用の発表から改暦までの期間がわずか1ヶ月弱だったこともあり、国民の混乱ぶりは想像以上のものでした。
福沢諭吉は合理的な太陽暦の採用には大賛成だったものの、政府の一方的なやり方(発表)に不満を抱き、改暦を分かりやすく説明した著書改暦弁かいれきべんを出版しています(この書物は10万部以上も売れたそうです)。

改暦弁(福沢諭吉)03
▲福沢諭吉著『改暦弁』初版表紙 via Wikimedia Commons Awalin CC BY-SA 4.0(画像を加工して作成)

それでも大正・昭和に入るまで、庶民の暮らしは旧暦によるところが大きかったと言われており、昭和22年(1947年)の調査(※)でも「新旧暦を併用して使っている」と答えた人は全国で44%にのぼったとも言われています。
※全国団扇扇子カレンダー協議会HPより。もとの出典は不明

現在私たちが使っているカレンダーは太陽暦によるものですが、その中にも「二十四節気」など、太陰太陽暦で使われた季節を表す言葉が残っています。
カレンダーは毎年新しくなりますが、その中には人間の歴史と文化が刻み込まれていると言えそうです。

二十四節気(新暦の月)01
▲二十四節気(にじゅうしせっき)。太陰太陽暦の閏月を設ける基準になっていました
ぼく(なごやっくす)ぼく(なごやっくす)

最後までご覧いただきありがとうございます。日曜始まりのカレンダーがあるのは、キリスト教で週の始めの日を「キリストの復活の日(主の日)」として、この日(日曜日)から一週間を数えたことに由来します。日本では週休2日制の導入増加に伴って、月曜始まりのカレンダーや手帳が増えたようです。土日がまとまっていると、週末の旅行(1泊2日など)の予定を書き込みやすくて便利ですよね!

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