明治21年(1888年)の今日、文部省(現在の文部科学省)から訓令「学生生徒ノ活力検査ニ関スル訓令」が出され、文部省直轄の学校で毎年4月に活力検査(身体検査)を実施することと、その検査成績を報告することが命じられました。
学校における定期的な身体検査(健康診断)の歴史がスタートしたのです。

当時の検査項目は?

当時の検査項目には、身長(体長)、体重、胸囲、臂囲ひい(臀囲でんいとする資料もあり)、指極、握力、力量、肺活量(肺量)、視力があり、臂囲(「臂」は辟に月。肘の意)は力こぶを作ったときの上腕の周りと二の腕の太さを。指極は両手を広げた時の中指の先から先までの長さを測っていたようです。
検査項目を見ると、当時の活力検査は健康よりも身体機能の評価が中心となっていたことが分かります。

活力検査から身体検査へ

活力検査が身体検査へと改められたのは、明治30年(1897年)の訓令「学生生徒身体検査規程」でした。この訓令により、臂囲、力量、握力が排除され、脊柱、体格、眼疾、聴力、耳疾、歯牙などが取り入れられます。生徒の体力よりも健康により重点が置かれるようになったのです。検査が体操教師によって行われていたのが、医師によって行われるように義務付けられたのもこの訓令でした。

戦後の昭和33年(1958年)には学校保健法が成立し、身体検査から健康診断へと改められました。学校保健史では、身体検査の歴史を、このページ内で太字で示した活力検査時代・身体検査時代・健康診断時代の3つの期間に分類しているようです。

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参考文献(参考URL)