12月19日は「日本人初飛行の日」です。
明治43年(1910年)の今日、東京・代々木練兵場(現在の代々木公園)で行われた軍の飛行演習で、徳川好敏(とくがわ・よしとし)が日本国内初となる動力付き飛行機での飛行に成功しました。
ライト兄弟による動力飛行の成功から7年後のことです。

アンリ・ファルマン式複葉機01
▲アンリ・ファルマン式飛行機(日本航空機総集6巻 38頁)via Wikimedia Commons public domain

使用されたのは、徳川好敏が海外派遣先のフランスで購入した「アンリ・ファルマン式飛行機」でした。記念すべき初飛行は最高高度70m、時速53kmで、飛行距離約3km、飛行時間4分という記録が残っています。


日本初になり損ねた男!?【日野熊蔵】

同じ日の午後には、徳川好敏と同じ陸軍軍人で臨時軍用気球研究会委員の日野熊蔵(ひの・くまぞう)も試験飛行に成功します。
こちらは熊蔵が派遣先のドイツで購入した「ハンス・グラーデ式飛行機」によるもので、高度45m、距離1km、飛行時間1分間という記録でした。

グラーデ単葉機に搭乗する日野熊蔵
▲グラーデ単葉機に搭乗する日野熊蔵(西日本新聞社『明治おもしろ博覧会』)via Wikimedia Commons public domain

なお、日野熊蔵は12月14日と16日にも試験飛行を行ないましたが、すぐに着陸したという理由で正式の飛行とは認められませんでした。
代々木公園には、徳川好敏と日野熊蔵の胸像が並んで建っています。近くには「日本航空発始之地」の碑もありますよ(Googleマップ)

徳川好敏之像(写真右)と日野熊蔵之像(同左)01
▲徳川好敏之像(写真右)と日野熊蔵之像(同左)。好敏の父・徳川篤守は、徳川慶喜の甥にあたります

ぼく(なごやっくす)ぼく(なごやっくす)

「日本人初飛行の日」の翌年となる明治44年4月1日には、所沢に日本初の飛行場が開場。5月5日には国産民間機の初飛行が成功するなど、日本の飛行機の歴史はどんどん進んでいきます

孤高の飛行機研究家・二宮忠八とは?

明治時代の日本の飛行機の歴史を語るうえで、もう1人名前をあげておきたいのが、二宮忠八(にのみや・ちゅうはち)です。

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▲二宮忠八(1866-1936) via Wikimedia Commons public domain

二宮忠八は独自の研究を重ねて飛行機の開発を目指しており、明治27年(1894年)に飛行機の開発を促す上申書を提出しました。
上申書の開発予定図には、自転車のような足踏み式の人力飛行機が描かれていましたが、忠八はより強力な動力としてエンジンの設置を考えていたようです。

二宮忠八の作った人力飛行機の模型。飛行神社(京都府八幡市)
▲忠八の作った人力飛行機の模型(京都・飛行神社)via Wikimedia Commons Motokoka CC BY-SA 4.0(画像をトリミングしています)

しかし、日清戦争の最中だったこともあり、上申書は上層部によって却下されます。その後、ライト兄弟の飛行成功を知った忠八は、飛行機の開発を断念してしまいました。
忠八の研究は再評価され、大正9年(1920年)に雑誌『帝国飛行』に取り上げられます。仮に上申書が受け入れられていたら、ライト兄弟に先駆けて、人類初の動力飛行を日本人が成し遂げていたかもしれない……なんて話もあるようです。

飛行神社(京都府八幡市)の御朱印01
▲飛行神社(京都府八幡市)で頂いた御朱印。二宮忠八が創建した神社です

京都・石清水八幡宮そばの飛行神社には「二宮忠八資料館」があり、忠八自筆の飛行原理発見に関しての資料や、忠八が晩年に作り残した玉虫型飛行機の模型を見ることができます。
飛行神社は、時代が進み、飛行機による犠牲者が多く見られるようになったことから、忠八がその霊を慰めようと私財を投じて創建した神社です。

ぼく(なごやっくす)ぼく(なごやっくす)

忠八が上申書を提出した時代は「飛行機」という表記が一般的ではなかったため、「飛行器」という表記になっていました。「飛行機」という日本語を造ったのは森鴎外(『小倉日記』)だと言われています

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参考URL・参考書籍など

▲図書館で借りて読みました。当時の様子が物語形式で書かれており面白いです